2013年11月20日水曜日

里に遊ぶ  № 6
『河内のお寺を尋ねる』
H25.11月17日  記 K.M
 早朝、6時に自宅を車で出かける。香芝、屯鶴峰を経て河内に入る。国道170号で
河内長野市街を抜け、暫く走ると、金剛寺への看板、道なりに走る。
AM.7時 に、天野山金剛寺に到着。道路はガラスキ、予定より早く着いた。誰もいない。  
                    前には天野川が流れ、静かで  素晴らしい景色、環境だ。
山門は開かれており、境内へ。
金堂、多宝塔は大修理中でテントで覆われている。少々残念 。 
ここ金剛寺には後村上天皇
賀名生から移られしばらく行宮と
された。(左の茅葺屋根の建物)
   
8:20  いざ、楠妣庵へ走る。
     楠妣庵境内 茶室⇒
9:20    楠妣庵駐車場に着く。
立派な、由緒ありそうなお寺だ。
まだ早いので境内を散策した。

9時半過ぎから、ご住職のお勤めが始まり、皆、本堂に席着。

お経、座禅、写経と続き、    待望の、おでん、おにぎり、飲み物、昼食は嬉しく、楽しい。
  
さあ、今度は演芸大会の始まり、始まり~。 楽器演奏、合唱
オカリナ、ソプラノ独唱、盛りだくさん。最後はO芸大和太鼓演武は最高に盛り上がり、何度でも、
いつまでも、見たい聞きたい叫びたいの感動だ!!
後村上天皇 檜尾陵
観心寺山門から上の本堂を見る
若かりし日を思い出させてくれてありがとう!
楠妣庵では時間大幅遅れの解散となる。

さらに寄り道。観心寺へ。
3時半ご頃到着すぐに参拝 

 
 この観心寺にも後村上天皇はしばし行宮を置いた。

今日、一日盛りだくさんの収穫あり。色んな知識、情報、触れ合いなど、中でも、若き血潮を吹き込んでもらえた喜びは何より一番だった。 嬉しい、楽しい幸せな気持ちで一杯になった。
 楠妣庵ご住職をはじめ、その檀家衆の皆様、演芸大会参加の皆さん、K大OBの方々、幹事さん
紅葉祭りご参加の若々しい皆さん、若き有能な芸大の皆さん 本当にありがとうございました!!










  

2013年11月18日月曜日

里に遊ぶ  № 5-1
『熊野古道・中辺路』
H25.10月26日  記 K.M
特急黒潮3号に乗り、紀伊田辺へ
AM.11:11   紀伊田辺着 総勢5名全員揃う。バスにて富田川をさかのぼり滝尻王子に向かう。
        熊野古道館にて昼食とする。その後、館内を30分程見学する。
13:15            軽く準備体操をし、滝尻王子出発。 急登だ。
息がはずんでくるが、まだ歩き出したばかり、顎を出すわけにはいかない。        
きつい!が、天気は上々、風も爽やか気持ち良い。 全員元気だ。

13:30   胎内くぐり 着

足、腹、頭、がつかえてズボンやしゃつが汚れちゃう。 それでも、悪戦苦闘のすえ、全員無事脱出。

13:40   不寝王子 着

この後も急登が続く。
剣山経塚跡を経て、

14:30   見晴台 着  山裾には富田川  

   
     その川辺にも、山の中腹にも
     静かな山里が望める。
     歩く両脇にカレンなよめながいっ
     ぱい咲いている。    ⇒⇒⇒

15:35   高原熊野神社 着
 
     皆で 記念写真


                  
その後近くの無料休憩所でしばし団らん。
愉快で楽しい
おばさん達だ。

  
             
向こうに見えるのは、果無山脈なんと素敵な名前か!と以前から思っていた。さほど高さのある山並みではないが、憧れてしまう山だ。
30分余の楽しい団らんであるが、これより
すぐ近くの 霧の高原宿舎へ向かう。
  今日の行程は終了。 お疲れさんでした。      皆さん !     又、明日も頑張りましょう!!


     

                                  
  

2013年11月17日日曜日

里に遊ぶ  №5-2
『熊野古道・中辺路』
H25.10月27日  記 K.M
今日の行動は楽チンコース、バスにて霧の高原より発心門王子へ、そして熊野本宮大社まで歩く行程だ。         発心門王子を 11:45 出発  大勢のハイキング客と一緒にそぞろ歩きだ。

時間と共に各グループごとに自然と分かれだす。途中、かわいい アサマりんどうがいたる所で咲き乱れ(!?)うれしい!

12:15  水呑王子 昼食とする
    ここは廃校跡らしく大きな
    広場と休憩所があり良し
12:50  出発 なだらかな下り登り
    快適な散策だ。 
13:50 伏拝王子
13:55 三軒茶屋跡 小辺路と合流
    (右、 かうや、 とある) 

途中見晴台に立ち寄り、十津川の雄大な流れを満喫し記念撮影も、おまけに
ほら貝の大きなサービスも受ける。

そこからは熊野大社までまっしぐら。
熊野本宮大社参拝の後、一路 湯の峰温泉へバスにて。

   
湯の峰温泉にて大先輩の湯もみ
ありがたい! いいお湯です!

10月28日  8:30  早めの出発
9:03  鼻欠地蔵
9:50  月見が丘神社
     9:50  大斎原 一番の目的地
熊野本宮大社の旧社地は 再起、復活     
の聖地らしい。かの 都はるみさんはこの地で再出発のコンサートを催したとの事。(他に2~3人?の方も)
この大斎原の中州をゆっくりと散策、雄大な十津川はここで大きく曲がってゆったりと熊野灘に流れていく。

10:19  日本一長い路線バスにて私は熊野から帰路についた。
    途中、谷瀬にて20分の休憩があり、その間に、生活吊り橋として
    298mの日本一長い吊り橋を渡ることができた。
今回は 非常に楽しく有意義な旅ができ幸せでした!!
     
           

2013年11月13日水曜日

里に遊ぶ  №4
『八幡平・隠し平』
H25.10月13日  記  K.M
 この地は学生時代に3度来たが、その頃の私はただもくもくと歩き山を登った。当時はアプローチするにも道路も出来てなく、さらに八幡平からかくし平まで谷を、沢を渡りひたすらよじ登った記憶だけが残っている。先輩に「ここを登れ」と言われ這い上がって見れば、石が2~3並んでいた。
『南朝天皇の墓』と教えられたが、「ふーん。そおお」が私の感想だった。それから40数年後、今度はこの地に親しみを持って訪れた。亡き父との約束で花折塚に参おりするようになったからだ。
                
八幡平から明神の滝まではなんなく歩ける。5年前に来た時は小雨模様で山ヒルの大群に休憩も昼食時も立ったままで難儀をした。山道は細く曲がりくねり、登り降りありで、遠目では道など無きに等しい。しかし道を外すことはない。 歩きだして一時間半、巨大な岩に滑滝らしき流水が見えると、かくし平の入り口だ。そこから数分も沢を横切り登るとやっと着く。
 『三ノ公行宮』 だ。あたりはうす暗く寂しい。                                尊義親王は皇子お二人を伴われ、人里離れた          『八幡平行宮』からさらに山奥のこの地に潜まれた。  ご心境はいかばかりか?!??
 南無阿弥陀仏 どうか安らかに!!                      と、 お祈りするばかりだ。
(この後、私は馬ノ鞍峰へ)
三ノ公行宮に戻り、再度お線香をあげ又の                             約束をし、    下山。
                                

八幡平に戻り川原に降りてみると、一人
の御仁が川から上がってきた。栗広いに
来たと。そして川向こうを指さし あの堰堤の200m上に『八幡平行宮』があるよと教えてくれた。。尋ねもしないのに。よくここにくるの?とたずねると、盆にアユ釣り来ると。「ここまで鮎はのぼるの?」 と 聞くと、「来るよ」と。「そうですか」と返事し、私は川のなかへじゃぶじゃぶとはいった。40数年ぶりの渡渉だ。川の両側に古民家が残っている。
『八幡平行宮』だ。 この行宮も大きな木立に囲まれ、暗くさみしい!!  カメラにフラッシュが要る。 
自天皇が詠まれたうた 胸に浸み、冷たく熱い  ⇒⇒⇒         
                       
天空に月を思い心が痛く弾けそうだ!
今日は長いできそうにない。 そっと去った。
車を走らせたら、先の御仁に出会い、「送りますよ」「いえ体力のため、いいです」と断られた。一番近くの人家まで  (入之波温泉)でも二時間以上かかるだろうに、と思ったが、 それ以上言えなかった。川上村に                              『南朝最後の古戦場』があるが、今度の機会にと行きがけには思っていたのに、つい、すうーっと車をそこに止めてしまった。そこには、自天皇と忠義王の首を取り返して、載せた首石台がある。
尊義親王の皇子達だ。(この話は後日)  南無阿弥陀仏を唱え帰路についた。 後日、考えれば、疑問、不思議な思いで何度も考える。あそこに鮎は登らない、100年前なら?  暗くなるまで栗広いに行くか?    八幡平行宮に行きたいと何故分かったの?     何故?首石台に寄ったの?   
あの、御仁は何処から来て、何処へ帰ったの??  いったい彼は何者でしょう????!                              
 

2013年11月11日月曜日

里に遊ぶ  №3
『南朝三代行宮・賀名生を訪ねる』
H25.11月4日  記 K.M
小雨降るなか、午後から五條に向け車を走らせ2時半頃賀名生の里「歴史民俗資料館」に到着、さっそく中を見学させてもらう。展示物は後醍醐天皇の貴重な宝、剣や日本最古の布製日の昔の農機具、アメリカ生まれの青い目のお人形・パトリ等、たくさんの資料が所せましと並べられている。中でも映像シアターの説明後醍醐天皇から後村上天皇の時代背景や出来事がよく分かり非常に良かった
                  

                         

左←左     

「行宮」
された
堀家住宅
(当時当主
堀信増)



楠木正儀
楠木正成公
の三男
(当時統領)          
(19~20歳)           上↑ 賀名生周辺略図 ↑  
  行宮・堀家住宅の前門には天誅組統帥・吉村寅太郎書
  『賀名生皇居』扁額が掲げられている。
1336年花山陵を脱失された後醍醐天皇は吉野に皇居を移す前に
堀家に滞在され、その後三代の南朝の行宮となる。
  1348年に後村上天皇が           
  1373年に長慶天皇が
  1392年に後亀山天皇が
(南朝最後の天皇。かくし平、尊義親王
の祖父にあたる)   又比類無き忠臣
北畠親房公のお墓 ⇒⇒ ⇒⇒ ⇒⇒
 
今も、賀名生の里は南北朝の面影を残多くの人々がその足跡を訪ねる。
 そして今西吉野村、五條市の名 
農産物、歴史遺跡、文化などあらゆるものを全国に発信し始めている。  


 

2013年10月17日木曜日

山に遊ぶ  №2-1
「隠し平から馬ノ鞍峰」
H.25年10月13日    記 K.M
AM. 6:00   自宅出発
   8:05   登山口到着
   8:15   身支度、準備体操をし、登山開始 出発
AM.8:45   明神の滝
此処までの登山道は整備も良く申し分なし。
高さ、40m前後はあろうか!?立派な素晴らしい滝だ
しばし、色んな角度からカメラに収める。
 これより本番、かくし平へ。途中所どころ土砂崩れで通りにくい箇所はあるが道を外すことはない。それにしても、
こんな山奥の奥の奥に隠れ住んだものだ。道は細く曲がりくねり、遠目には道など無きに等しい。木場道がやたら多い。
今日は心配した山ヒルやダニも全く見当たらない。
天気続きで気温も低いからだろうか? 幸運だ!
どこまで続くのか? このややこしい道は と思いながら登り続ける。
沢の水量も少なくなり、やがて滑滝でもあり、普通の滝のようでもある長く、落差のある滝、すごい岩盤の横に出た。
 ようやくかくし平の入り口にたどり着いた。

AM. 9:45  かくし平 三ノ公行宮址 
                

尊義親王が皇子お二人を連れ、この地まで忍んで来られ、
この地を行宮とされた。
ご心境はいかばかりか ???
(察しあまりある!)
幸いみかんを二つ持っていたのでお供えをし、お線香も上げさせてもらった。 
(太陽がさんさんと照らしていても、なお うす暗い)
私の登山の無事をお願いし、帰りに再度のお参りを約す。
AM. 10:10   尊義公墓所 出発
        稜線目指してまっしぐら、だったが、豪雨土砂崩れのためか以前と川相がまるで変わってしまっている。尾根への取り付き口が見つからず右往左往、やっと赤テープを見つけ一息。
一気に稜線目指して駆けあがる。が、しかし登山者が少ないのか?微かな踏み跡程度しか道が分からない。やはり稜線直下で道をはずした。20m余り登れば尾根に出られると、鹿の踏みあとを辿り、木や根を頼りによじ登った。やっと見覚えのある尾根にで、一安心。
11:00   稜線に出る。  これより先は快適な尾根歩きだ。後、一時間ほどで馬ノ鞍峰に立てる。     
















2013年10月16日水曜日

山に遊ぶ  № 2-2
「かくし平から馬ノ鞍峰」             H.25. 10月13日
 
快適な尾根歩き、ではあるが先ほどの稜線への急登のせいか?
足が重い。10分程登り小休止、黒米入りパンを食べ再登行。
痩せ尾根を踏みしめ前へ上へと登る。樹木が繁茂し見通しがきか
ない。、一か所だけ、、遥か、台高主稜線、父ケ谷高から振り子辻
方面が望めた。(父ケ谷高のテントサイトはまるで枯山水庭園だ)
周りの木々は、朴ノ木がやたら多いが、石楠花、ヒメシャラ、ぶな、
もみ、つが、みずならの巨木もたくさんある。そのみずならには
2~30羽のやまがらが飛び交い、私の前2~3mくらいまで来てくれる。
又、左下の写真のようにぶなの大木におびただしい、珍しいきのこが
いっぱいだ。
 目前 頂上だ!もう一息と頑張った。
12:01  馬ノ鞍峰 到着
 
←←
台高主稜線
      ⇒⇒
標高1177.8m
馬ノ鞍峰
台高山地中央部のⅠピーク
 
 
 
 
ぶなの木にきのこ   今回はのんびり座っての昼食ができた。
          (5年前は周り一面の山ヒルで立ったまま)
12:38  下山とする。
     下山途中迷い易いだろうと思っていた地点でやはり道を見失う。10分ほど時間ロスだ。下山尾根が痩せ尾根で木々が生い茂っているため、道なり、大きな尾根に入り易いため迷い易いのだろう。それよりは、なんなく「かくし平へ」
 
13:50  尊義公墓所に戻り再度お線香を上げる、
14:00  三ノ公行宮でもお線香を上げ、お線香の火が経ち終
    るまで見守っていた。
14:30  三ノ公行宮に分かれを告げ下山
15:29  元の登山口に 無事下山!
 
15:35  八幡平民家?(現在無人)を見、下の河原に出る。
    (4日後、友人との話の内に、不思議な人物が後日今回の山行は久々の山奥深い登山であり、意義深く、快適、本当に心にしみる素晴らしい思い出なった!!!   
      
 
 
 
 
  


 
 
 

2013年10月7日月曜日

海に遊ぶ № 2
「熊野の磯」
H.25.9月28日 記 K.M
今日は、前回のリベンジ、踊る気持ちを抑え車を走らせる。いつもの餌やに寄ると、水温26度、青物も回り出したとの事。目的地の波止場に到着し少し休みAM3時、暗がりの山道を歩き出す。
4時過ぎに第1投。連れの友は最初から小さくもカマスを上げる。
※ 夜明け直前の茜雲 実に綺麗な茜色だ。

見とれていたら、いさき ヒット、まずまずだ。
その後、小さいのも上げる。

又も一番良い時間帯に4~5隻の漁船が目の前を右往左往しだして釣りにならない。
青物を狙っているのだろう。

とうとう7時を過ぎてしまい、仕方なく我々も青物狙いとしたら、とたんにハリス3本すぐに切られてしまう。又、仕方なく棚を竿2本にしたら、それが、幸いしたのか良型のいさき2匹続けて釣れる。

  その後、当たりなしが続く。 暫くすると、今まで見たこともない
ごみの大群がはてしなく、間断なく流れて来る
 大木、木くず、木の根っこ、その他色々な物がまるで大きな筏のように連なり押し寄せて続ける。勿論釣りが出来る状態ではない。  仕方なく、昼飯、昼寝、休憩とした。
寝ていたら、懐かしい声に目覚めると、いつもの現地友だ。
しばし団らんの時をすごす。彼らもこの磯の熱烈なファンだ。
一時間以上も経って、ようやく流木の大群が収まり、しばし釣りに
戻る。 が、しかしこの時間帯では釣れる気配なし。

本日の釣はこれまでとし、後片付けをする。

今日の釣果は良型いさき3、小2、まずまずだ。

後日、44cmのいさきの刺身、極上、まるでトロの様に
旨かった!!


  塩焼きもほんに美味しかった!!

                     
これからは ますます味も良くなり、釣れる魚も大きくなるだろうと期待をして磯を後にした。

現地釣り友はこれから夕方にかけて釣るそうな。

、彼らにもイサキやグレにもハマチにも会いたいものだ!

楽しい 一日を過ごせた 感謝、感謝である。

2013年9月22日日曜日

里に遊ぶ  №2-2

「花の吉野に哀史あり」 №2-2

      「南朝行宮跡」   左の写真
奥の南朝妙法殿に往き、ロウソク、お線香をあげ、手をあわせる。 この「南朝行宮」の石碑の左手には、
後醍醐天皇、後村上天皇、天慶天皇、後亀山天皇の歌碑が建つ。
 後醍醐天皇の討幕計画は一旦挫折(笠置にて惨敗)
隠岐に流されながらも、1333年名和長年らに助け出され、伯耆の船上山に入り諸国に討幕の命をだせば、
足利尊氏は六波羅探題を、新田義貞は鎌倉の北条一族を、少弐、大友、島津連合軍が鎮西探題を打ち破り、遂に鎌倉幕府滅亡となり、建武の新政となる。
 しかし、新政に不満を持った足利尊氏が力を延ばして、
遂に後醍醐天皇と離反し、京都に光明天皇を立て武家政を復活させた。
後醍醐天皇は「天子尊治」と名乗り、吉野に入山された。

    南北朝 の対立となる。


         
後醍醐天皇陵
日本唯一    ↓
北向き!    ↓ この地より北、京都を望み
                    いつかは京に 
帰らん!           







                    
    
 
1339年 後醍醐天皇は壮烈な遺言を遺し、52才の波乱万丈のご生涯をおえられたじょう
 父帝の遺志を継ぎ 12才で後村上天皇が即位された。
その9年後、1348年、楠木正行、正時兄弟は四条畷の合戦で討ち死に、その勢いで足利勢が吉野に押し寄せ、遂に
吉野の堂宇伽藍ことごとく焼亡となった。
後村上天皇はかろうじて難を逃れ吉野を脱失された。

これで、吉野山における南朝哀史は幕を閉じた。

しかし、この後も南北対立はまだまだ続く。

この後は、五條市郊外の賀名生へと舞台は移る。
五條市は今、天誅組決起
150年で注目されている。

2013年9月21日土曜日

里に遊ぶ №2-1

「花の吉野に哀史あり」
H.25年9月15日 K.M. 1/2
雨のしょぼふ降るなか吉野に出かけた。久しぶりに飛鳥、芋峠を経て大和上市、吉野への道を辿った。 飛鳥の棚田はこれから咲き誇らんと彼岸花が早くも咲き始めていた。 この芋峠の古道
その昔、天武、持統天皇も吉野離宮へと足げく通われたことであろう。       
 
この棚田にた    飛鳥の事柄は1から100までそれ以上 に 
くさんのかかし   よく御存じだった、紀ノ川でのローレライの歌 
が居並ぶのも   「犬養 孝」 先生の説明看板だ ↓
もうすぐだ。

春爛漫の吉野 
中央部やや左
上が蔵王堂






海抜364m
 
吉野山中腹に
金峯山寺蔵王堂はある。高さ34mの大伽藍を
支える大木の列柱の一つに1000年ものつつじの見事な大木(多少の歪みはあるが すごい)その蔵王堂内には3体の蔵王権現が安置される 。
 1300年の昔、役行者蔵王権現を感得され、そのお姿を桜の木に彫刻され、吉野山にお堂を創っておまつりをされた。それ故、蔵王権現のご神木として桜の苗木がたくさん寄進されるようになり
現代の桜の名所の代表となったそうである。
金剛蔵王大権現  過去世、現世、来世、の三世をお救い下さるのだ。
我々凡人には、来世がありや無しや分からないけれど、現世を力一杯生き功徳を積み重ねれば来世もより良く生きられることでしょう。もし来世がなかったとしても悔いはないですね!!

         

          
             ⇒
豪雨降り仕切る蔵王堂
9月15日PM.2時頃

この後の南朝哀史を
暗示させるかの様だ。
          
              参拝者もまばらだ。
この後、蔵王堂に向かって左の階段を下る。