2013年9月22日日曜日

里に遊ぶ  №2-2

「花の吉野に哀史あり」 №2-2

      「南朝行宮跡」   左の写真
奥の南朝妙法殿に往き、ロウソク、お線香をあげ、手をあわせる。 この「南朝行宮」の石碑の左手には、
後醍醐天皇、後村上天皇、天慶天皇、後亀山天皇の歌碑が建つ。
 後醍醐天皇の討幕計画は一旦挫折(笠置にて惨敗)
隠岐に流されながらも、1333年名和長年らに助け出され、伯耆の船上山に入り諸国に討幕の命をだせば、
足利尊氏は六波羅探題を、新田義貞は鎌倉の北条一族を、少弐、大友、島津連合軍が鎮西探題を打ち破り、遂に鎌倉幕府滅亡となり、建武の新政となる。
 しかし、新政に不満を持った足利尊氏が力を延ばして、
遂に後醍醐天皇と離反し、京都に光明天皇を立て武家政を復活させた。
後醍醐天皇は「天子尊治」と名乗り、吉野に入山された。

    南北朝 の対立となる。


         
後醍醐天皇陵
日本唯一    ↓
北向き!    ↓ この地より北、京都を望み
                    いつかは京に 
帰らん!           







                    
    
 
1339年 後醍醐天皇は壮烈な遺言を遺し、52才の波乱万丈のご生涯をおえられたじょう
 父帝の遺志を継ぎ 12才で後村上天皇が即位された。
その9年後、1348年、楠木正行、正時兄弟は四条畷の合戦で討ち死に、その勢いで足利勢が吉野に押し寄せ、遂に
吉野の堂宇伽藍ことごとく焼亡となった。
後村上天皇はかろうじて難を逃れ吉野を脱失された。

これで、吉野山における南朝哀史は幕を閉じた。

しかし、この後も南北対立はまだまだ続く。

この後は、五條市郊外の賀名生へと舞台は移る。
五條市は今、天誅組決起
150年で注目されている。

2013年9月21日土曜日

里に遊ぶ №2-1

「花の吉野に哀史あり」
H.25年9月15日 K.M. 1/2
雨のしょぼふ降るなか吉野に出かけた。久しぶりに飛鳥、芋峠を経て大和上市、吉野への道を辿った。 飛鳥の棚田はこれから咲き誇らんと彼岸花が早くも咲き始めていた。 この芋峠の古道
その昔、天武、持統天皇も吉野離宮へと足げく通われたことであろう。       
 
この棚田にた    飛鳥の事柄は1から100までそれ以上 に 
くさんのかかし   よく御存じだった、紀ノ川でのローレライの歌 
が居並ぶのも   「犬養 孝」 先生の説明看板だ ↓
もうすぐだ。

春爛漫の吉野 
中央部やや左
上が蔵王堂






海抜364m
 
吉野山中腹に
金峯山寺蔵王堂はある。高さ34mの大伽藍を
支える大木の列柱の一つに1000年ものつつじの見事な大木(多少の歪みはあるが すごい)その蔵王堂内には3体の蔵王権現が安置される 。
 1300年の昔、役行者蔵王権現を感得され、そのお姿を桜の木に彫刻され、吉野山にお堂を創っておまつりをされた。それ故、蔵王権現のご神木として桜の苗木がたくさん寄進されるようになり
現代の桜の名所の代表となったそうである。
金剛蔵王大権現  過去世、現世、来世、の三世をお救い下さるのだ。
我々凡人には、来世がありや無しや分からないけれど、現世を力一杯生き功徳を積み重ねれば来世もより良く生きられることでしょう。もし来世がなかったとしても悔いはないですね!!

         

          
             ⇒
豪雨降り仕切る蔵王堂
9月15日PM.2時頃

この後の南朝哀史を
暗示させるかの様だ。
          
              参拝者もまばらだ。
この後、蔵王堂に向かって左の階段を下る。




                      
                    

2013年9月1日日曜日

里に遊ぶ № 1

「巨岩・巨石の笠置を訪ねて」
H.25.8月29日記 KM
今日、午後から笠置にでかけた。笠置周辺の木津川砂州では夏休み最後とばかりに大勢の家族連れで賑やかだ。少し離れた料理旅館などはひっそりとしていた。巨岩、巨石の笠置寺目指して上に上へと登った。最上部に大きな駐車場があり、トイレも完備されていたが今日は無人だ。

   山門をくぐり、周遊コースをゆったりと歩く。すぐ眼前に巨大  岩船か!と思うほど馬鹿でかい大岩が、これ何?。
この巨大岩石のしたに、笠置命名のいわれの説明板あり。
又、左の写真、右下のお堂は正月堂で、第一回目のお水取りがなされ、以後二月堂で現代まで受け継がれている。
又、この正月堂から当寺ご本尊弥勒菩薩、(大岩石線刻)を礼拝するそうな。


謹んで 礼拝!!

先に進むと、胎内くぐり、
太鼓岩などの下を潜り抜け又大きな虚空蔵石を拝む。(この線刻は見事だ)
そしてぐるりと回って登るとゆるぎ石にでる。 

    ここは見晴台か! ふもとの眺め良。
大岩石の彫刻は1300年前。↓↓東大寺   この大岩を手で力一杯
実忠和尚とその師良弁僧正による。    押すと少し動くのだ 
                                    これ  

ぐるりと歩いてみると左の仏像が彫刻され、その仏を中心に笠置山全体が一大修験行場となっている事がよく分かる。

しかし、元弘元年(1331年)
8月27日、討幕計画に失敗
した後醍醐天皇を当寺に迎えた事により攻防一ヶ月ついに全山焼亡。以後室町時代に少々復興をみたが江戸中期より荒廃、明治初年無住の寺となってしまった。 明治9年丈英和尚 狐狸の住む荒れ寺を復興20年、ようやく今日の姿になったとの事である。
 
ここ笠置は南北朝の始まりの地と思われる。

左の写真は後醍醐天皇行在所跡だ。

右の大岩の上に上がりほら貝を吹き鳴らし皇軍の
士気を鼓舞!
 
※  ここ笠置は南朝ゆかりの地だった。
  これから、南朝ゆかりの地を巡ってみたくなった。