2015年5月19日火曜日

『飛鳥路を歩く』  № 3

『飛鳥路』を二日にわたって歩く          H27. 5月9日~10日
今日は桜井市を通って明日香に入る予定のため、まず、「飛鳥資料館」に立ち寄り、その後史跡巡りのコースとする。明日香はたくさんの重要な史跡があるが、それだけでなく、各村の儀式や風土まるごと貴重な文化財である。そして今なお脈々と息づいているのが素晴らしい
館の前庭の「須弥山石」がおもしろい。
左がその構造説明で、右が現物だ。

館内に関東の中学生がたくさんやって来て皆熱心に史料を覗き込み、メモまでとっている。修学旅行で望んで来たと。

私のお気に入りはやはりこれだ。
なんともいい微笑顔だ。

この後訪れる山田寺跡の貴重な資料、東回廊の再現した物。   ⇒

他にもたくさん紹介したいものがあるが、皆さんも是非現地へ。

資料館より5分程で「山田寺跡」

山田寺は蘇我倉山田石川麻呂
が創建。 磐余・山田道と呼ばれる古道があり、井上靖氏の磐余道の道標も見える。
(石川麻呂は時の右大臣で蘇我入鹿の従兄弟)
寺の境内は広々と広大だ。
発掘された「東回廊」は法隆寺よりも50年も前の最古の物だ。

これより、「石舞台古墳」へ。蘇我馬子の桃原墓であろうとの説が有力だ。

石舞台の言われは「狐が女に化けて大岩の上で舞を見せた」又、「田舎旅芸人がこの石組みの上で芸を披露した」と。

石舞台を右に見て、奥明日香の稲渕へ

「稲渕」の入り口には「勧請縄・男綱」がぶら~り
男渕の雄の龍神のシンボルを明日香川の真上に。成人の日に藁でつくる。
そして、「栢の森」の入り口にも。
雌の龍神のシンボルが。「女綱」
どちらも子孫繁栄、五穀豊穣を祈り、疫病を防ぐようにと願う。

村の中の道を通り、「南渕請安」墓所へ

大化の改新の当の3人が師と仰いだ偉い先生であり、入鹿と鎌足は親友同志であった。

中大兄皇子と中臣鎌足は密談に苦慮し、多武峰で相談した由。その地を談山神社と言う。
(藤原の鎌足が祀られている)

明日香川の飛び石を渡る。
『年月も いまだ経なくに 明日香川 瀬々ゆ渡しし 石橋もなし』
(年月もまだたたないのに、明日香川のあちこちの瀬に渡しておいた、飛び石もない。)
『明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 想ほえむかも』
(明日も私はこの石橋を渡り、あなたの元へ通うでしょう。その想いはこの石橋のように、離れずあなたの心の傍らにあるのです。)         
明日香より、談々神社への道路が開通した。

学生時代には談々神社にお参りし、明日香へハイキングして下山したものだ。
又、山仲間とも膝くらいの雪道を竜門岳から談々神社そして飛鳥へと下った。若かった。
大化の改新の相談に中大兄皇子と中臣鎌足も何度ここを通ったのだろう?
どうしてこんな遠くの山道を登って行ったのか?
どうして?入鹿の首に追っかけられてこんな所へ逃げたのか?(このすぐ下がもうこの森) 
そう!『若かった』からだと思う。
若いから、あんな事もどんな事もできた。 「山々の精気がこの先の明日香へ向かってるんだ。 

この山々の大自然の精気を得て明日香が栄えさらにその先へと突き進んでいけたのだろう。                 

 




2015年5月15日金曜日

『飛鳥路を歩く』  №, 2

 『飛鳥路』を二日にわたって歩く                    H.27年5月9日~10日
神武天皇は天照大神の子孫で、九州の日向を発ち、難波、熊野、吉野を経て、紀元前660年、大和の橿原宮で即位し最初の天皇になったと伝承されている。 大和三山の妻争いの歌より。「香久山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」 (万葉集巻1) この歌は、この作者が、中大兄皇子(天智天皇)で弟の大海人皇子(後の天武天皇)と額田王をめぐって争ったことをふまえて詠んだと伝えられている。大和三山の関係に重ねており、又、この三山の丁度真ん中に飛鳥最後の「藤原宮」が造営された。

     犬養万葉記念館を出、       「伝板葺の宮跡」に向かう。大化の改新の舞台となった地だ。

この頃、政治の実権を握った
蘇我入鹿「山背大兄皇子」を暗殺、さらに恩師「南淵請安」をも処刑。民衆を忘れた入鹿の国つくりを止めるため中大兄皇子と中臣鎌足は相談しこの宮で首を
はねた。その首が鎌足を追っかけた。逃げて談山神社の麓まで。 追ってもうこぬだろうと腰かけた石が残る。あまりの怖さに霊を収める為「首塚」を祀った。

万葉歌 『采女の 袖吹き返す 明日香風 京を遠み いたずらに吹く』 石碑を横目に 、次へ。

「酒船石遺跡」にやってきた。
斎明天皇の「両槻(ふたつき)宮」では、と推定される。
亀形・小判形二つの石造物が発見され、導水施設を造りだしている。と、女性ボランテイアが。
しばらく歩くと着いた。「飛鳥寺」

605年、推古天皇が聖徳太子や蘇我馬子及び各皇子と誓いを立てて発願し、609年、止利仏師によって造られた日本最古の仏像「飛鳥大仏」が鎮座。
ご本尊「釈迦如来坐像」である。
高さ、3m。重さ15トン。
右手は「与願」左手は施無畏」を
現されている。
創建当時は中金堂」「塔」「中門」「南門」が一直線に並ぶ、「一塔三金堂形式」の伽藍を形成し、寺域は東西200m、南北300mに達する大寺院であった。
右の看板はご住職のお言葉。⇒

しばし寺社内の中庭や宝物を見学し、やがて外に出、鐘楼の釣鐘を一突きして西門より出る。

飛鳥川を少し下り、「雷丘」へ。
ごく小さな小山だ。が登る道が見つからず、一回りする。仕方なく畑の上の急斜面をよじ登る。頂上は風が強い。小さな草原で桜が植樹される。(左下の写真)


豊浦へ急ぐ。
この地に向原寺があり、推古天皇の「小墾田(こはりだ)宮」「豊浦宮」のあった所、伝。

こちらの「百済伝来の仏像」を本田善光が池に捨てられたので持ち帰り「善光寺」を建立して安置
した逸話もある。

そして「甘樫
丘」に登る。

汗ばむほどだか、風が心地よい。
上より飛鳥寺を望む。 右⇒

眼前に見える「大和三山」「額田王」との関係は現代にもある事だ。

今日の散策予定はこれで終了となる。この後は「甘樫丘」の尾根をに南に進み下り、車の所へ。 今日も愉快な方(酒船石遺跡の案内美人のお姉さん??)。すいか作りや甘樫丘の元気な爺さんなど、いい人に出会えた。行動すれば何かに出くわし、人情もお互いに湧いてくる。いつまでも新鮮な気持ちを持ち続けるることもできる。
これからも野に山に海にも歩ける内はでかけよう!!

 

2015年5月12日火曜日

『飛鳥路を歩く』  № 1

『飛鳥路』を二日にわたって歩く               H27. 5月9日~10日
飛鳥時代と呼ぶのは、推古天皇(我が国初の女帝)が豊浦宮で即位された崇峻5年(592年)から平城京に遷都(710年)するまでの100年余の時代である。7世紀の飛鳥は日本の政治、文化の中心であったが、1400年の歳月を経て田園風景となった。飛鳥の地中には「日本書紀」の舞台となった数々の遺跡が眠っている。 かの井上靖氏は「飛鳥は春は春で明るく、秋は秋で明るい。飛鳥の地、独特の明るさである。どこか底の方にひんやりとした翳り(かげり)が隠されている明るさである。飛鳥を歩むということは歴史の中を歩むことである。」 と。
AM 9:00 高松塚壁画館
        3番目の入館だ。
この地一帯は桧隅(ひのくま)と呼ばれ渡来人が多く居住した。
昭和47年3月から発掘調査が行われ「彩色壁画」発見となる。


館を出、模型古墳を見、隣の「文武天皇御陵」へ、周囲を見学。

「鬼のせっちん・まないた」へ。
途中道を違えたが、「すいか」作りの爺さんに教わり、暫し話し込む。 この大岩は元は石棺のセットだったのが、片方下に転げ落ちたそうな。

「天武・持統天皇陵」へ急ぐ。
小高い所にあり、長い坂道、階段を上る。 立派な御陵である。

元の駐車場に戻り、車を移動。
「亀石」へ歩くが、日射がきつい。
亀石の前に水路、横にはお店。
私が中学の頃は亀の上に乗り遊んだものだ。

どんどん歩き「川原寺跡」
何にもないが広い石畳や草原が、向こうに基壇が見える。
天武天皇の勅願時として飛鳥寺や大官大寺とともに飛鳥三大寺の一つであったそうな。

南に向き緩やかに登ると「橘寺」
「聖徳太子」誕生の地である。 幼名は厩戸(うまやど)皇子」だ。
愛馬は「黒駒」、愛犬は「雪丸」 王寺町のユルキャラで皆に可愛がられている。
垂仁天皇の勅命を受け、「田道間守」は「不老不死の妙薬」を求めて、トコヨの国へ、10年の艱難苦の末この秘薬を持ち帰ったが、天皇存命中に非ず、後を追う。忠義を思い天皇御陵の池の小島に埋葬される。西ノ京北の尼ヶ辻にある。


これが今回の目的『犬養万葉記念館だ。
今も犬養フアンが大勢詰めかける。
喫茶室(軽食OK)や先生解説の万葉の旅のビデヲを私も懐かしく、特にあの独特の「犬養節」、聞けて感激でした。
お昼時だったので大きな揚げのうどんを頂いた。
山清水万葉歌碑 「山吹の 立ちよそいたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく」 (巻2-158)高市の皇子
  (山吹がさいている山の清水を汲みに行きたいが、そこへ行く道が分からない)
紅の赤裳万葉歌(高松塚前の小丘)
「立ちて思ひ 居てもそ念ふ くれなゐの 赤裳裾引き 去にし姿を」 
(立っては思い座っても思う、紅の赤裳の裾を引いて去っていったあの人の姿を)
この記念館にはたくさんの万葉資料や本が所狭しと本棚に並び、万葉時代の和紙を染め、巧みに上手に作ったお人形も並ぶ。今回は二階まで上がっての見学の時間が無く、残念ながら次の機会にしたい。
今日はまだまだ続くが紙面が続かないので、№ 2 で紹介したいと思います。