『飛鳥路』を二日にわたって歩く H27. 5月9日~10日
今日は桜井市を通って明日香に入る予定のため、まず、「飛鳥資料館」に立ち寄り、その後史跡巡りのコースとする。明日香はたくさんの重要な史跡があるが、それだけでなく、各村の儀式や風土まるごと貴重な文化財である。そして今なお脈々と息づいているのが素晴らしい。左がその構造説明で、右が現物だ。
館内に関東の中学生がたくさんやって来て皆熱心に史料を覗き込み、メモまでとっている。修学旅行で望んで来たと。
私のお気に入りはやはりこれだ。
なんともいい微笑顔だ。

他にもたくさん紹介したいものがあるが、皆さんも是非現地へ。
資料館より5分程で「山田寺跡」
が創建。 磐余・山田道と呼ばれる古道があり、井上靖氏の磐余道の道標も見える。
(石川麻呂は時の右大臣で蘇我入鹿の従兄弟)
寺の境内は広々と広大だ。
これより、「石舞台古墳」へ。蘇我馬子の桃原墓であろうとの説が有力だ。
石舞台の言われは「狐が女に化けて大岩の上で舞を見せた」又、「田舎旅芸人がこの石組みの上で芸を披露した」と。
石舞台を右に見て、奥明日香の稲渕へ
「稲渕」の入り口には「勧請縄・男綱」がぶら~り
男渕の雄の龍神のシンボルを明日香川の真上に。成人の日に藁でつくる。
そして、「栢の森」の入り口にも。
雌の龍神のシンボルが。。「女綱」
どちらも子孫繁栄、五穀豊穣を祈り、疫病を防ぐようにと願う。
村の中の道を通り、「南渕請安」墓所へ
中大兄皇子と中臣鎌足は密談に苦慮し、多武峰で相談した由。その地を談山神社と言う。
(藤原の鎌足が祀られている)
明日香川の飛び石を渡る。
(年月もまだたたないのに、明日香川のあちこちの瀬に渡しておいた、飛び石もない。)
『明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 想ほえむかも』
(明日も私はこの石橋を渡り、あなたの元へ通うでしょう。その想いはこの石橋のように、離れずあなたの心の傍らにあるのです。)
明日香より、談々神社への道路が開通した。
学生時代には談々神社にお参りし、明日香へハイキングして下山したものだ。
又、山仲間とも膝くらいの雪道を竜門岳から談々神社そして飛鳥へと下った。若かった。
大化の改新の相談に中大兄皇子と中臣鎌足も何度ここを通ったのだろう?
どうしてこんな遠くの山道を登って行ったのか?
どうして?入鹿の首に追っかけられてこんな所へ逃げたのか?(このすぐ下がもうこの森)
そう!『若かった』からだと思う。
若いから、あんな事もどんな事もできた。 「山々の精気がこの先の明日香へ向かってるんだ。
この山々の、大自然の精気を得て明日香が栄え、さらにその先へと突き進んでいけたのだろう。