「花の吉野に哀史あり」 №2-2
「南朝行宮跡」 左の写真
奥の南朝妙法殿に往き、ロウソク、お線香をあげ、手をあわせる。 この「南朝行宮」の石碑の左手には、
後醍醐天皇、後村上天皇、天慶天皇、後亀山天皇の歌碑が建つ。
後醍醐天皇の討幕計画は一旦挫折(笠置にて惨敗)
隠岐に流されながらも、1333年名和長年らに助け出され、伯耆の船上山に入り諸国に討幕の命をだせば、
足利尊氏は六波羅探題を、新田義貞は鎌倉の北条一族を、少弐、大友、島津連合軍が鎮西探題を打ち破り、遂に鎌倉幕府滅亡となり、建武の新政となる。
しかし、新政に不満を持った足利尊氏が力を延ばして、
遂に後醍醐天皇と離反し、京都に光明天皇を立て武家政権を復活させた。
後醍醐天皇は「天子尊治」と名乗り、吉野に入山された。
南北朝 の対立となる。
日本唯一 ↓
北向き! ↓ この地より北、京都を望み
帰らん!
1339年 後醍醐天皇は壮烈な遺言を遺し、52才の波乱万丈のご生涯をおえられた。じょう
父帝の遺志を継ぎ 12才で後村上天皇が即位された。
その9年後、1348年、楠木正行、正時兄弟は四条畷の合戦で討ち死に、その勢いで足利勢が吉野に押し寄せ、遂に
吉野の堂宇伽藍ことごとく焼亡となった。
後村上天皇はかろうじて難を逃れ吉野を脱失された。
これで、吉野山における南朝哀史は幕を閉じた。
この後は、五條市郊外の賀名生へと舞台は移る。
五條市は今、天誅組決起
150年で注目されている。